atomit's scrapnote

中世では、テキストの注解は「光沢=グロス」と呼ばれたそうです。テキストの内側から光を照らし出させるという意味だといいます。
光を当てるのではなく、光を内側から透過させる。まさに照明で建物を照らすのではなく、ステンドグラスにより建物そのものの内側から光を照らし出させるようなゴシック建築の技術に通じます。

中世の人びとは、聖なる光はこちらから見るのではなく、あちらから浴びるのだと信じていました。こちらからとにかく闇に光を当てようとした啓蒙の時代とはまるで逆です。

“ジークフリート・ギーディオンが『機械化の文化史』のなかで指摘しているように、中世の部屋にはほとんど家具というものが置かれていなかったのである。グーテンベルク以後、視覚があらたに強調されたために、すべてのもののうえに光を要求することとなった。また新しく生まれた時間と空間の観念は、時間と空間を事物や活動によって満たされるべき容器と見なしはじめたのである。だが、視覚が触覚と密接な関係にあった写本時代には、空間は視覚的容器ではなかった。”
マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』

みずから光輝いた中世的空間で人はそのやわらかな光にやわらかく包まれていたのでしょう。そのとき、光は単に視覚的なものではなく触覚的なものでもありました。

デザインというものは、こういうものだ。これがデザインだ。そう、感じたのだろう。感情も約束も、仕掛けも組み立ても、予算も音楽も、そういうものが一挙に吹っ飛んで、相手の心に高速で突き刺さるときがある。
 恋闕(れんけつ)である。恋情である。それをおこすことがデザインというものだろうと思えたのだ。いや、それこそが石岡瑛子のデザインの真骨頂というものだと思えたのだ。
Diamond in Chernobyl. They are different from us, but I love them all. They are beautiful. Living is beautiful. Please don’t give up living. You are born to live. I love you all.

意味のない改行がむかつく

アメブロでやれ。文系を名乗るなら改行に意味を持たせろ。

「同胞を失って悲しい。4人が憎いが、彼らにも親がいて、今後刑務所で長い時間を失うことを悲しんでいるはずだ。一つの犯罪がたくさんの人たちの悲しみをつくる。ネパール人がそういう気持ちでいることを知ってほしい」
omgdrooool:

SUSHI iPHONE CASE — SIGN ME UP

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NK細胞を活発にし、ガンやインフルエンザの予防に効くR1ヨーグルトはかつてないほど画期的な商品なのに、肝心の原材料の牛乳の安全性を頑に明確にしない明治乳業。
今は、R1ヨーグルトをひとつ買って、そこからその乳酸菌を育て、違う牛乳を使って自家製R1ヨーグルトをつくる動きが出ている。もう企業を信用できないのだ。企業は大きくなるほど消費者を見ずに株価の動向ばかり見るようになる。
クリスマスをようやく籠城戦で乗り切ったと思ったら、もう世間ではバレンタインデーの話してんのかよ。なんだよその波状攻撃、米軍かよ。
ユーラシア大陸最東端にあるチュクチ半島の人々とホッキョクグマのご近所付き合い:カラパイア
ユーラシア大陸最東端にあるチュクチ半島の人々とホッキョクグマのご近所付き合い:カラパイア

食の安全性、持続可能な第一次産業、食糧安全保障など、わたしたちの生活の根幹が崩れることは明白です。 TPPにより生み出される新たな社会は、わたしたちが自信をもって、子どもや孫の世代に引き継げるものなのでしょうか。

答えは「NO」です。
だから、わたしたちは声をあげなければならないのです。

ただ、反対、反対、と考えているだけでは、なにも変わらないかもしれません。
いま、必要なのは、わたしたちの生活者としての「誇りと強さ」をもつことです。
それは、ちゃんとたべものを選び、食べることです。
「農薬に頼らず作った、たべもの」
「誰がつくって、どのように運ばれたかわかる、たべもの」
「余計な添加物が入ってない、たべもの」
ひとりの生活者として、
「ちゃんと、たべもの」のある生き方がいま、求められています。

「殺してやりたい」

“wish I could kill him.”

おばあちゃんは、耳元で、3度、そう言った。

Old woman said that beside my year, 3 times.

自分の旦那を、殺したい、と語ったのだ。

She told me she wants to kill her husband.

飯舘村。全村避難が完了した、ということになっている、

Iidatemura. All the citizens were supposed to have evacuated.

その地で、住み続けている老夫婦がいる。

Life in 20km (via tomoleoht)

津波で泥に埋まってしまった家を、
何軒もきれいにしてきたチームのなかには、
じぶん自身が、親しい人を失った人も混じっています。
助けられる側、励まされる側の人でもある人が、
手助けしたり励ましたりしているわけです。
どっちがどっち、と決まってるわけじゃない。

そして、そこに集っている仲間たちだって、
助ける側にいるのは、偶然かもしれないんですよね。
彼の家が無くなったかも知れない、ということ。
わたしの命がなくなったかもしれない、ということ。
そう考えていくうちに、現実はそうじゃなかったけれど、
あの日、あの場所で、あの人に起ったことは、
この日、この場所で、わたしに起ったとしても、
なんの不思議もなかったんだよなぁ、と思えます。
 
なぜ、手を差し伸べるんでしょうか、と、
たくさんの人たちに、その動機がよく質問されます。
いろんな答えがあるとは思うのですが、
「じぶんだったかもしれない」から、という気持ちは、
誰のなかにも、きっとあるんじゃないでしょうか。
 
生きのびた人と、亡くなった人、特になにもなかった人、
それは、たまたま決まったことでした。
ぼく自身は、あの日、東京にいて、
それからもぶつぶつ言ってはいるけれど、元気です。
つまり、それは、東京大震災じゃなかったからで、
その日に、あの場所にいなかったからです。
失ったものも、ほとんどなくて、元気でやっています。
運命がちがっていたら、いなかったかもしれない。
その気持ちに囚われると身動きできなくなりますが、
「じぶんだったかもしれない」ということは、
こころのなかに、小石くらいのサイズでもいいので、
いつでも置いておきたいと思うのです。
助けてるのは、「じぶんだったかもしれない」人。
だから、助けられていることとそっくりなんですよね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
<じぶんで選べないことは、その人のせいじゃないです。>

なんとなくこういう書き方をすると、喩えでものを言っているのだと思う方もいらっしゃると思いますが、こう書いている僕にはこれが単なる喩えだというつもりはなくて、まさに殻のなかに埋もれた仮死状態の情報から発想が生まれ出る際の人と情報(群)の相互のはたらきをほとんど直喩的に示しているつもりです。

それにはとにかく祭りの場での恥や外聞は捨てて、とにかく目の前の情報におどらされて、直観的に歌をうたってみないといけません。間違いなどといったその場であり得ないものを信じるのではなく、直観を命ずるがまま手を動かして、歌を綴ってみないといけない。自意識などは捨てて、とにかく目の前の状況に身をゆだねるのです。

ハレの時間(とあるワークショップの感想を兼ねて):DESIGN IT! w/LOVE

殻のなかに埋もれた仮死状態の情報から発想が生まれ出る際の人と情報(群)の相互のはたらき