atomit's scrapnote
しかし、この願いが実現するためには、相手に良心が存在していることが前提となる。専制政権のマシーンはきわめて硬い構造と冷酷なロジック、そして官僚の利益によって成り立っている。当時、数千人の子どもたちが天安門広場の死のハンガーストライキを続けた時であっても、彼らは良心を見せることはなかった。

この点こそ過去の非暴力的闘争の限界である。軍配は最終的に、抵抗者ではなく政権の側にあがった。抵抗者たちはたんに圧力をかける力しかなかったのだ。権力が譲歩しなければなんの進展も得られない。現在のチベットが苦境に陥ったのは必然と言えよう。


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では苦境を抜け出る道はどこにあるのだろうか?これこそがまず回答するべき問題だと思う。方向を見失ってはいけない。それでは焼身抗議という壮烈な献身もまた人々により多くの絶望を与えるだけのものとなってしまう。みなは焼身抗議と向き合う中で、感情的な動揺を受けるとともに、この事態の前に茫然自失している。

焼身抗議者には勇気があるが智慧がなかった、という物言いは不公平だろう。智慧とは安楽を貪るための技巧ではない。チベットを苦境から救い出すための大略こそが智慧である。それは一般民衆がもちうるものではない。また政治から退いたダライ・ラマをすべての智慧の源とすることも無責任な行いだ。ダライ・ラマは非暴力原則と中間路線を確立した。この後、どう実現していくかは政治家たちが智慧を出すべきことだ。

今は苦境から脱する智慧を見出すことはできない。中国は片手に金を、片手に刀を握っている。チベットはというと……亡命政府を代表とするならば、声明を発表すること以外に、なにをなすべきか知らないようだ。

勇敢なチベット人に何をなすべきかを伝えて欲しい。何がなるべきか、何をできるのかを知れば、彼らは生きていくことができる。惨烈な焼身抗議によって一時のメディアの注目を集めることではなく、生きていくことができるのだ。