震災後の我が祖国の知識人・著名人のブログなどを読んでいて気になったのが、妙に「祈り」「供養」等の記述が増えていることであった。
なんかこう、これはまた違った形での、神戸地震&オウム真理教で盛り上がったあの時代の再来ではないのか。と思えて仕方がないのだが、そういえば、東京シティーのガヴァナーの天罰発言などもよく考えてみればレリジャスで、しかも、わたし自身の伯父が似たようなことを言ってたというおまけが付いていた。
「日本人っていうのは、ずっとおかしくなってきてたからね。やっぱり、罰が当たったのかなあと、おいちゃんなんかは思うね」
博多出身のくせにすっかり寅さんみたいな喋り方になった60代後半の関東在住の伯父はそう言った。どうもこの天罰コンセプトは、ある年齢から上の世代の人々のコンセンサスだったのではないか。北野武も同様のことを言っていたようだし。
罰が当たる。天罰が下る。
という発言は、被災者への配慮が無さ過ぎるということでナンセンスとされたが、もっと「神的」レベルで言えば、こんなところに神様をもってきて勝手に物語の主人公になるな。ということだろう。
天の神様が罰を与える。というのは、ある種の主人公(ヒーロー、ヒロイン)イズムに基づく物の見方だ。世界中を見渡しておられる忙しい神様が、なぜに日本(という人の集まり)だけを注視するだろう。なぜに日本(という人の集まり)だけにお怒りになられ、わざわざ罰を下すなどして、もっと良い国になれるよう助けたりするのであろうか。
天罰。という言葉には「ヒーローは俺。ヒロインは私。世界の中心はここ」みたいな自己チュー浪漫主義がまぶされている気がしてならず、わたしにはそのことが一番気色悪い。
大地震。
は日本の国土がそういう事態が勃発しがちな場所に位置しているから起きたのであり、
原発事故。
はそういう場所に位置する国のくせに、そうした事実を真剣に考えてエネルギー計画を立てたり、運営したりしていなかったために起きたのである。
ならば、これは「罰」などではなく、「リアリティーを見据えて国家(という人の集まり)をデザイン&構築しなかったために、失敗した」というだけの話であり、何もそこにゴッドなどという人智を超えたものを持ち出さなくとも、
「天罰が下りた」のではなく、
「アホだったのでやりかぶった」だけの話ではないか。
ミステイク。というより、天罰。のほうが言葉的にはずっとグラマラスなので、そういう詩的な言葉で自らの苦境に対する意味づけを行いたくなる気持ちはわかる。が、ここは国家(という人の集まり)全体で、宗教的じゃない理由づけをしたほうが、将来的にはプラクティカルに優れた国(という人の集まり)のデザイン&システム構築ができるだろう。
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