atomit's scrapnote

津波で泥に埋まってしまった家を、
何軒もきれいにしてきたチームのなかには、
じぶん自身が、親しい人を失った人も混じっています。
助けられる側、励まされる側の人でもある人が、
手助けしたり励ましたりしているわけです。
どっちがどっち、と決まってるわけじゃない。

そして、そこに集っている仲間たちだって、
助ける側にいるのは、偶然かもしれないんですよね。
彼の家が無くなったかも知れない、ということ。
わたしの命がなくなったかもしれない、ということ。
そう考えていくうちに、現実はそうじゃなかったけれど、
あの日、あの場所で、あの人に起ったことは、
この日、この場所で、わたしに起ったとしても、
なんの不思議もなかったんだよなぁ、と思えます。
 
なぜ、手を差し伸べるんでしょうか、と、
たくさんの人たちに、その動機がよく質問されます。
いろんな答えがあるとは思うのですが、
「じぶんだったかもしれない」から、という気持ちは、
誰のなかにも、きっとあるんじゃないでしょうか。
 
生きのびた人と、亡くなった人、特になにもなかった人、
それは、たまたま決まったことでした。
ぼく自身は、あの日、東京にいて、
それからもぶつぶつ言ってはいるけれど、元気です。
つまり、それは、東京大震災じゃなかったからで、
その日に、あの場所にいなかったからです。
失ったものも、ほとんどなくて、元気でやっています。
運命がちがっていたら、いなかったかもしれない。
その気持ちに囚われると身動きできなくなりますが、
「じぶんだったかもしれない」ということは、
こころのなかに、小石くらいのサイズでもいいので、
いつでも置いておきたいと思うのです。
助けてるのは、「じぶんだったかもしれない」人。
だから、助けられていることとそっくりなんですよね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
<じぶんで選べないことは、その人のせいじゃないです。>

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